Jascha Silberstein

Jascha Silberstein

cellist

 19世紀にはピアノのリスト、ヴァイオリンのパガニーニといった、それぞれの楽器の超絶的名手(ヴィルトゥオーゾ)がいて、当時あるいはそれ以降の演奏家や作曲家に大きな影響を与えた。そして20世紀。あくまで個人的見解だが、リストはラフマニノフに、パガニーニはハイフェッツにその位置を譲ったのではないかと思う。もちろんリストやパガニーニの実際の演奏を聴くことはできないので、単純に比較することに過大な意味を持たせるべきではなく、要はそれほど歴史的に突出した存在だということだ。  さてラフマニノフのことはともかく、ハイフェッツは1901年、ロシアのヴィルナに生まれた。ハイフェッツの父ルビンは、当地の劇場のヴァイオリン奏者で、幼いヤッシャは父からヴァイオリンの手ほどきを受けたが進歩のほどは目覚ましく、1906年にはヴィルナ帝室音楽学校に入学しイリア・マルキンの指導を受け始めた。そして翌年にはメンデルスゾーンの協奏曲を公開演奏するまでになった。そんな折、当時のロシア音楽界の重鎮だった大ヴァイオリニストのレオポルト・アウアーが、音楽教育の視察のため学校にやって来た。そこでマルキンは幼いハイフェッツの演奏をアウアーに聴いてもらうべく尽力した。アウアーはハイフェッツの演奏に驚嘆し、ペテルブルグ、つまり自分のところに来て学ぶように勧め、ハイフェッツ親子はペテルブルグに移住することとなった。ペテルブルグ音楽院の入学については、アウアーやグラズノフの粋な計らいがあったようだが、とにかくそこでもハイフェッツの飛躍ぶりはすさまじく、13年ぐらいにはロシア、ドイツ、北欧あたりまで演奏活動を展開し、アルトゥール・ニキシュの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演するほどになった。そして17年にはシベリア、日本(その後23、31、54年に来日公演あり)を経由してアメリカに渡り、カーネギー・ホールにてアメリカ・デビューを果たした。この演奏会によってハイフェッツはただちにアメリカでの名声を確立し、録音も開始された。しかしそれは第一次世界大戦の時期と重なり、ロシアにも革命が起こって帝政時代は終焉を告げ、社会主義国家が樹立された。その結果、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ウラディミール・ホロヴィッツ、ナタン・ミルシテイン、フョードル・シャリアピンら多くの音楽家たちがロシアから亡命し、ハイフェッツも結果的にそれに続いて25年にはアメリカの市民権を得た。録音も一段と活発になり、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団と共演したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲や、ピアノのアルトゥール・ルービンシュタインおよびチェロのエマヌエル・フォイアマン(後にグレゴール・ピアティゴルスキー)と組んだ、いわゆる“百万ドル・トリオ”によるベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」などは、モノラル期の代表的なものだ。また彼の超絶技巧を強烈にアピールしたサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」やサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を収録した盤もある。さて時代はステレオ期ヘと移り、いよいよハイフェッツは録音活動の最盛期を迎えて名盤を続々と送り出す。とくに協奏曲が多く、これらは共演者も超一流で音質も良いので長く聴かれ続けているものばかり。まずベートーヴェンとメンデルスゾーンおよびプロコフィエフの第2番をシャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団と、ブラームスとチャイコフスキーをフリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団と、シベリウスとグラズノフをワルター・ヘンドル指揮シカゴ響と、ブルッフの2曲やモーツァルトの第4番ほかをマルコム・サージェント指揮ロンドン新交響楽団と、といった具合である。だが60年代初頭から、ハイフェッツは次第に室内楽や教育へと活動の比重を移し、南カリフォルニア大学で後進の指導にあたるようになった。それ以来、あまり公開演奏をすることはなかったが、71年になってパリでテレビ番組用の録画をした。これは日本でもNHKで放送され、『シャコンヌ~ハイフェッツ・オンTV』というタイトルのアルバムで聴くことができる。また72年には南カルフォルニア大学のためのチャリティ・コンサートのライヴ録音『ザ・ラスト・リサイタル』も発表されたが、これが生涯最後の録音となった。そしてこの世紀の巨匠は、87年12月10日に86年の生涯を終えた。  ハイフェッツの魅力はもちろんその超絶的な技巧の冴えにある。しかも音色も非常に美しいが、何よりその音楽のスタイルには、いかにも時代の最先端を駆け抜けるが如きモダンさとシャープさを備えている。また潔癖で端正きわまる造型美や、ウェットなところのない速めのテンポによる凛としたクールさもたまらない。彼に続く多くのヴァイオリニストは、ハイフェッツに追い付き追い越せと精進を重ねただろう。しかしむしろハイフェッツは、そんなことを諦めさせるほどの超越的存在だったのではないかと思う。没後30年以上経った現在、それはあながち間違いとも言えぬのではないか。

Type

Person

Born

Apr 21, 1934

Born in

Szczecin

Died

Nov 21, 2008 (aged 74)

Died in

Hot Springs

Country

United States

ISNI code

0000000119516259

Genres