Karl Boehm

Karl Boehm

Artist, Contributor

 カール・ベームがオーストリアのグラーツで生を受けたのは1894年8月28日。19世紀末、オーストリア=ハンガリー帝国の時代だ。カール少年はグラーツの高等学校を卒業後、グラーツ大学(カール・フランツェン大学グラーツ)で法律を学ぶ一方、父の友人フランツ・シャルクに紹介され、ウィーンでオイゼビウス・マンディチェフスキに音楽を学んでいる。ところが1914年に第一次世界大戦が勃発。カールはグラーツに戻り、いったん軍に入隊したが馬に蹴られる事故に遭い、その怪我がもとで16年に除隊する。  その後グラーツ歌劇場の練習指揮者に採用され、17年に指揮者デビューを果たす。もし除隊していなかったら、音楽家カール・ベームはなかったのかもしれない。ヨーロッパは動乱の真っ最中だったが、ベームは故郷グラーツで、指揮者への階段を一歩一歩上がっていき、20年にはベートーヴェン生誕150周年の記念公演で「フィデリオ」を振るまでになっていった。  そして21年に転機が訪れる。バイエルン国立歌劇場の第4指揮者への就任だ。このときの音楽監督はブルーノ・ワルターで、彼はベームに大きな影響を与え、とくにモーツァルトのすばらしさを伝えた。2人の友情は第二次世界大戦中、戦後を通じて続いた。そしてカール・ベームの躍進が勢いを増す。ダルムシュタット市立歌劇場、ハンブルク国立歌劇場を経て、34年にドレスデン国立歌劇場総監督に就任する。この時期はベームにとって、とても充実した時期となった。数多くのオペラ公演に加えコンサートもこなし、リヒャルト・シュトラウスの「無口の女」や「ダフネ」の初演も行なった。  さらにドレスデン国立歌劇場管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮して大量の録音を行なう。35年から49年までの録音は『Karl Bohm - The Early Years』にまとめられている。CD19枚にもおよぶモノラル録音で、第二次世界大戦の戦局が悪化する中でも最高レベルの音楽活動を行なったベームの成果。43年にはウィーン国立歌劇場の総監督に就任。45年にはオーストリア音楽総監督の称号を与えられた。  戦後は連合軍から2年間の演奏活動停止命令を受けるが、47年に復帰。ヨーロッパの主要都市から南北アメリカと活動範囲を拡大する一方、ザルツブルク音楽祭には毎年のように出演。モーツァルトのオペラを次々と取り上げ、ベルクの「ヴォツェック」でも話題を呼んだ。62年にはいよいよバイロイト音楽祭へデビュー。ヴィーラント・ワーグナーの演出でワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を振り、以後音楽祭の中心的な存在として76年まで出演している。この頃はビルギット・ニルソン、ヴォルフガング・ヴィントガッセンの絶頂期。66年の「トリスタンとイゾルデ」のライヴ録音は現在でも多くの音楽ファンの支持を得ているし、66年と67年にライヴ収録された「ニーベルングの指環」、トマス・スチュアートとグィネス・ジョーンズが演じる71年録音の「さまよえるオランダ人」もすばらしい。  ベームの来日は63年にオープンした日生劇場のこけら落とし公演が最初で、ベルリン・ドイツ・オペラを率いてモーツァルトの「フィガロの結婚」、ベートーヴェンの「フィデリオ」と交響曲第9番を指揮。2回目はウィーン・フィルを率いての来日(75年)で、あまりの反響の大きさにベームも感激し、その2年後には再来日となった。この2回の公演で日本でのベーム人気は一気に高まった。NHKやFM東京が収録した音源はCDやDVDとしても発売されている。最後となった80年の来日時はベーム86歳。ウィーン国立歌劇場を率いてモーツァルト「フィガロの結婚」、リヒャルト・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」、昭和女子大学人見記念講堂のこけら落とし記念公演でベートーヴェンの交響曲第2番と第7番を振った。ウィーンに戻り4回目となる“第九”(ウィーン・フィル)を録音。ジェシー・ノーマンやプラシド・ドミンゴら豪華なソリストが参加し、重厚なテンポと慈愛に満ちた響きはまさに孤高の境地。翌年8月14日ザルツブルクで亡くなった。  カール・ベームはステレオ時代に入ってからはおもにドイツ・グラモフォンに膨大な録音を行なった。ウィーン・フィルとのモーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」(74年)、「ドン・ジョヴァンニ」(77年)、「レクイエム」(71年)、さらにベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団との「フィガロの結婚」(68年)、ベルリン・フィルとの「魔笛」(64年)、交響曲全集(59~68年)など、ベーム70代の気力も体力も充実していた時期の名演が並ぶ。さらにウィーン・フィルとのベートーヴェン交響曲全集(70~72年)や「ミサ・ソレムニス」(74年)、ブラームス交響曲全集(75~77年)、ベルリン・フィルとのシューベルト交響曲全集(63~71年)など、過剰な表現を抑えた質実剛健な造形と巨大な建造物のように組み上げられた表現でドイツ・オーストリア音楽の規範と評されている。また親交の深かったリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」(69年)や「ナクソス島のアリアドネ」(69年)、「英雄の生涯」(76年)も聴きごたえがある。さらにベルクの「ヴォツェック」(65年)と「ルル」(68年)は、ベルクの名を世に知らしめたベームならではの世界遺産級の名演だ。